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   進 雄 神 社

所在地 大木町山ノ奥106
祭礼日 4月第2日曜日
祭  神 進雄尊


進雄神社本殿 
 一宮町の西南部にある大木区と西原区の神社です(西原区には他の神社の氏子の人もいます)。大木区の西部で広い大木田面の西端にあたり、西原区と近接しています。
 社域は広く、参道の長いことでも有名です。社叢の木々は若く老樹の茂る神域ではないですが、杉桧の人工林が少しずつ成長していて、神社らしい静けさをつくりつつあります。
 道路脇の社号標石を右に見て一の
鳥居から200mほどで入母屋造瓦葺の拝殿に到着します。
 古い本殿は柿葺でありましたが、昭和初年の火災以後は八棟造の銅板葺きのものになり、現在にいたっています。
 進雄神社は江戸時代までは牛頭天王社といっていました。しられている棟札のうち最古の天正15年(1587)のものには「奉造立牛頭天王祇園宮一宇」とあり、中世末に祇園牛頭

進雄神社拝殿
天王を勧請した社であることが分かります。
 また、元緑10年(1697)の棟札には「奉建立大木牛頭天王宮御宝殿一宇」と記されています。この宝殿とは本殿のことで、いく度か葺き替えられながら江戸時代を通して、人々に崇敬されていたと思われます。
 江戸時代から明治、大正時代にかけての300年間については前記の火災により記録が焼失していて詳細は不明です。ただ明治中期の宝飯郡誌には「村社、進雄神社 境内坪数二千二百七十三坪、祭神、進雄尊、祭日 大陰暦六月十五日」と書かれています。
 以上から中世末期に勧請されて以来、牛頭天王と称していましたが、明治時代になり、政府の政策にそうように、牛頭天王社の名称を進雄神社と変更として、現在に至っています。



   末 社 と 社 叢


末社 
 江戸時代の村の様子を知るのに大きな手掛かりとなるものに村明細帳があります。享保3年(1718)のものを見ると末社をして六所、権現、おしゃくし、大黒、いなり、天神の6社があり、昭和5年の調査では御鍬社、菅原社、秋葉社、大己貴社、六所社、三峯社、荒神社の7社となっています。現在では三御子社と金毘羅社が加えられて9社となっています。これからの末社は木の祠に安置され、それを大きな切妻の屋社で保護してい
ます。
 このようjな末社の変異は信仰の対象であり神も時代と人々の願いによって変化していることを示しています。
 社叢は比較的変化の少ない森でありますが、台風の被害を契機に大きく変わることがあります。この社叢もここ20年ほどの間に大きく変わりました。
 町誌には「この社叢は一宮町では珍しいヒメユズリハ、タブ、クロガネモチ、シイ等の混生林である」として模式図がのっています。しかし、現在では主な木は伐採され、新しく人工林にしようと杉桧の植林がしてあります。

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   祭 礼

 進雄神社は大木区と西原区の氏神であるので祭礼も両区の共同で執行されます。
 旧祭礼日は大陰暦の6月15日で、疫病の退散や稲の害のないことを願う祭りであることを物語っています。しかし、明治中期以後になって太陽暦となり農繁期と重なることをさけて、4月11日に移しました。昭和の後半になって社会情勢の変化にともない、4月2日曜に変更され今の祭礼日となっています。
 祭礼は朝方に本社で神事を行い、午後、大木区、西原区がそれぞれ行列を作って、再度進雄神社に向かうのです。まず、太鼓や鉾を先頭にしてオニや餅引きの青年が続き、途中で大木神社と菅原神社に参拝して、約3km離れた神社へ大木区の行列が進んでいきます。一方西原区では、笹踊りを中心として進み、神社の入口前で合流して神域に入り、拝殿へ進みます。続いて雅楽をかなでながら、御輿をかついで西宮社へ行き、御旅所で神事を行い、再び本社に帰って神事は一応終了します。後に拝殿西側の桧の老樹の頂上付近から、餅投げが行われ、人々はその餅を拾ってから帰途につきます。



  笹踊

 西原地区を中心にして笹踊りが行われます。一般には勇壮にあばれる青年の踊りが笹踊と思われていますが、笹踊りの中心は3人の児童が特別の衣装をまとい、笠をつけ、太鼓をたたいて踊る方です。この笹踊りにはそれぞれの地域の様子を表した歌がついていて、古い時代を物語っていることが多いです。

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   石 造 物

 江戸時代に大木村は石高が千石を越すほどで東三河でも屈指の大村でした。そのためか当時から、神社に色々なものが奉納されていましたが、現在ではいくつかの石造物が残っているのみです。
 参道の途中にある二ノ鳥居には宝永7年(1710)の「牛頭天王御賽前、宝永七歳 宝飯郡大木村」とかすかに読む事ができる春日形石灯籠が一対あります。疑灰岩質の石材なので風化の状態がひどく、もう数年たつと字を読む事が不可能になります。
 石灯籠の奥に石の鳥居があります。これは二ノ鳥居で柱に「正徳弐年壬辰九月吉日」と刻されています。額はないですが明神形の鳥居で正徳2年(1712)に建てられたもので、

二の鳥居

鳥居 
一宮町では最も古い石の鳥居です。
 神社とは直接的にはつながらないものですが、拝殿前広場から少し離れた所に大きな石の宝篋印塔があります。一部が破損し、一部が紛失していますが堂々たる塔で人々の注目する所です。そのためか、この塔の下には小判が埋められているという言い伝えが今でも真しやかに語られています。しかし、この塔は小判の造られた時代よりももっと古い時代のも
のです。立派な宝篋印塔であるために何カありそうだとの考えから出た話だとおもわれています。
 この堂々たる宝篋印塔は塔身がなく、相輪の一部を欠くものでありますが、隅飾りの形などは古式をしめしていて、鎌倉時代のものと考えることのできる貴重なものです。
 拝殿広場にも多くの石造物があります。古いものでは安政6年(1859)の神前形石灯籠が一対あります。

宝篋印塔

灯籠 
これには「安政六巳未年世話人 江戸 三河屋滝蔵 越後屋庄蔵、三河屋清吉」と記されていて、この地方と関係のあった江戸の人々が奉納したものであります。また側面には当時の神主、庄屋などの村役人が姓を名乗って鈴木、中村、林、加藤、嶋田等と書かれています。これは江戸時代にも百姓たちに姓のあったことを示すものです。

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   新宮寺跡と手水鉢

 明治以前は神仏習合といって神社に神宮寺というお寺のある所が所々にありました。砥鹿神社のように付近に一宮山常昌院という名の立派な寺がある場合もあるし、大木進雄神社のように境内に固有の名はなく神宮寺というように一般名で呼ばれた所もあります。
 進雄神社の神宮寺は拝殿広場の馬場の東にある見物で古くは芽葺きであったと思われますが今は明治時

鐘楼 

神宮寺 
代を物語る瓦で葺かれています。広さは二間、三間の小さな家であるが、内部には当時を物語るものが残されています。
 室内はやや黒ずんではいますが、建築材に装飾のあることに驚くとおもいます。まず、入口から見上げれば板蟇股が目につきます。そして正面には仏像を安置したと思われるところがあります。上を見ると欄間風になっています。そこの内部材料には渦
巻きの彫りがいくつもあることに気づくと思います。これらの渦巻きの様子から考えてこの神宮寺が建てられたのは江戸時代の後期であろうと思われます。
 拝殿前の広場の南東部に手洗場があります。これが神宮寺の鐘楼の建物であります。場所が移動したという言い伝えがないので、昔のままの位置と建物であると考えられます。一間四方の小さな鐘楼ですが、ここの屋根にも仏教的な匂いのする瓦が使われています。柱を補強するかのように貫きが三ヶ所にあります。内部の上方を見ると新しい補修の札が打ち付けられていますが、その梁に鐘をつるした後を残す孔があいています。あまり大きな鐘ではなかったようですが、鐘楼として使用されていたことは確かです。
 今では旧鐘楼内には手水鉢が置かれて手洗場の形を見せています。凝灰岩質(黒瀬石)の手水鉢は高さ50cmほどのもので、正面に「享保十乙巳三月十一日」とか、参州宝飯郡大木村といった文字が刻まれています。享保10年(1725)に鳳来寺山麓で造られて運ばれたものでしょう。

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   大 鳥 居 と 句 碑

 大木区が西原区の西方で接する所に進雄神社の参道入口があります。道路脇の低い階段の上に「定」という昭和7年の石の制札があります。社号標石には「郷社 進雄神社」とありますが他の神社と同じように旧社格をコンクリートで埋められています。裏を見ると昭和16年と書いてあり、この年に昇格を祝い、昭和20年には戦争に負けて社格をコンクリートで埋めなくてはならなかった。本当に短

一の鳥居

社号標石
い郷社の期間でありました。 その後に小さい石柱があります。祭礼時に飾提灯を立てるために支柱で大正14年に寄進されたものです。
 石の鳥居の前に立派な灯籠が参道をはさんで左右に立っています。高い基段の上に立つ宮立型の大きな灯籠です。裏にある寄付をしたと思われる人々の姓を見ると、西原の人々であることはすぐにわかりますが、その中に東京という肩書きの付いたものがあります。これは西原出身の東京在住の人が故郷のお宮へ寄進したものです。
 灯籠の奥に、この神社の一の鳥居というべき石の大きな鳥居があります。高さは5m弱の明神鳥居です。大正6年に寄進された立派なもので、姓を見ると大木区の有志によるもの
であることがわかります。この鳥居をくぐるといよいよ神域といった感じがします。
 石造物を見ていると、参道入口付近が整備されだしたのが大正6年からで、以後少しずつ整っていたことがわかりますし、大木、西原のみでなく、この神社に関係する人々の広がりを読み取ることができます。入口からやや離れた所に珍しく句碑が建てられています。自然石に刻まれた

狂俳碑
もので、「境内閑として杜鵑聞く 七十六翁安気」安気さんは本名を加藤島作といい、大木の人ですが狂俳では近郷に聞こえた人であり、昭和の中頃まで存命されていました。

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