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素盞嗚命(すさのおのみこと)

素盞嗚命は、父神伊邪那岐命から海の支配を任ぜられたにもかかわらず、お亡くなりになった母神伊邪那美命(いざなみのみこと)を慕われ毎日泣いてばかりおられました。その激しい泣き声は山を枯らし、海や川を干上がらせてしまいました。その後、神々の世界、高天原(たかまがはら)に上られた素盞嗚命は、その激しい気性から乱暴なふるまいを続けられたために、高天原の神々によってこの地上に追放されてしまわれたのです。素盞嗚命は、これまでのお振る舞いを深く悔やまれ、出雲国に降り立たれました。そして、この国で暴れまわっていた恐ろしい大蛇「八俣のおろち」から人々を救うことを決意され、英知を尽くし、苦闘を重ねた結果、ついにこれを退治され、平和な国を作り上げたのです。後に、おろちから救われた稲田比売をお妃(きさき)に迎えられ、出雲国須賀の地に宮殿をお建てになりました。ご気性が激しく、猛威を振るわれる神。しかし、ご自身のお振る舞いを償われるため、英知と勇気を持って困難を乗り越え人々を救われる、雄々しく、やさしい神。素盞嗚命は、とくに嵐や疫病を司り、こうした災いから人々をお守りくださる神としての御神徳はよく知られています。


八幡
(はちまん)


ひろく各地にまつられているのが、必ずしもあきらかではありません。
三座一体となっていますが、その主神を応神天王jといい、それに比売大神と大帯姫命というような二神を配しています。その本源とみられる宇佐八幡の所伝では、その地の鍛冶の翁が、犬神比義の前で、小児の姿となり、みずから誉田天皇と名乗ったという。それにたいして、大隈正八幡の縁起によると、大比留女という王女が、七歳で神聖な王子を生み、母子ともにウツボ船にのせて流されたと伝えられています。そので、八幡信仰の中核は、処女懐胎の伝承につながる母子神の信仰ではなかったかと説かれています。古くから八幡の信仰は、特殊な巫女・神人の活動によってささえられていたようです。東大寺造営などの機会には、そのすぐれた託宣能力を発揮して、しだいに中央にも寝室していった。その神威は、さらに武家から庶民にも及び、広く各地でまつられるようになりました。


天王(てんのう)

有力な御霊の神の一つ。播磨の広峯から京都の八坂に移しまつられ、しだいに神威を増して、ついては全国にひろまりました。今では八坂神社・八雲神社などといわれますが、もとは多く天王社とよばれていました。ここで天王というのは、牛頭天王のことでありますが、一説にもと祇園正舎の守護神であったといいます。「備後風土記」の説では、一名を武塔天神、または素盞鳴戸尊といい、その神の力で疫病を免れると伝えています.平安時代の初期に、御霊信仰の流行につれて、まず京の八坂に天神が勧請されましたが、ついで同じ地に観慶寺、俗称、祇園寺が建てられ、牛頭天王・頗梨采女・八王子などがまるられていたといいます。さらに勅令によって、その社の御霊会がおこなわれ、いわゆる祇園祭として、はなやかな発達をとげた。そのような祇園祭の方式が、各地の農村の夏祭りに引き継がれている。京の八坂のほかにも、播磨の広峯や尾張の津島のような、天王信仰の中心があります。



天神(てんじん)

 古くは、「天神地祇」ということばにしめませるとおり、国つ神に対する天つ神の意味をもっていました。多くの土地に尼くだる神は、それぞれに天神と呼ばれていました。それらの神々が、今日の五条天神や八坂天神の例のように、しだいに御霊神や行疫神の性格を備えてきました。そして、ついには有力な御霊神のひとつ天満天神の信仰によって、統一されてしまうのです。そのために、一般に天神とさえいえば、菅原道真の霊をまつったものとし信ぜられている。道真の御霊の活動はきわめてはげしく、その死後50年ほどの期間に、京都七条の女、近江比良の神主の子、日蔵や最珍などという僧に、次々に神託をくだしました。その結果、今日の北野の地に道真の霊をまつって、天満大自在天神・太政威徳天などと呼ぶ事になりました。そこにはもともと天神の祠があり、その御霊信仰には、古くからの雷神信仰が結びついていたみたいです。しかし、御霊の活動がしずまってのちは、北野の天神は、もっぱら文筆詩歌の神としてあがめられました。そのような信仰が全国にひろまって、各地の天満宮・天神社・菅原神社などに伝えられています。
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神明(しんめい)

 古くから、「天地神明」などと熟して用いられていましたが、のちに主として伊勢神宮をさす言葉となりました。伊勢神宮といえば、皇室の祖神にあたる皇大神宮に、その御饌をつかさどる豊受大神宮をあわせたよび名です。皇室の氏神という性格のために、もともと一般国民が参拝することはなかったようです。平安時代の末期に、巡礼回国の流行にともなって、伊勢と熊野が結びつき、ともに一般の参詣の対象となりました。さらに、伊勢の神人の活動によって、神明信仰は国民の各層にひろまったのです。皇室の衰えた時期には、かれらの布教は、とくに活発におこなわれました。御師の組織も整い、各地の信徒に大麻を配り、多数の道者を参詣にまねいた。村村では、伊勢講が結成され、代参の習俗も確立しました。のちには、お蔭まいりや抜けまいりのような、特異な集団参拝もくりかえされました。


稲荷(いなり)

 農耕と深い関係をもち、ひろく民間にまつられています。その中核にあたる京都伏見の稲荷神社でも、農耕神にふさわしい伝承を多くもっていました。その祭神をウカノミマタなどというのは、一種の穀霊につながる名といっていいです。伏見の稲荷山と摂社の田中社との関係は、民間における山の神・田の神の交換と比べる事もできます。その神使として狐が出てくるのは、諸国の狐塚の伝承とあわせて、田の神のミサキとい性格について考えさせられます。おそらく、稲荷山の巫女などが、そうしたミサキ狐を駆使することによって、さらに稲荷信仰を発展させたのだろうと考えられます。そのほか、雷神信仰との関係などについても注意されており、稲荷の神性をたやすく説きつくすことはできません。伏見の稲荷は、はじめ、秦氏の氏神としてまつられたが、東寺の鎮守とあがめられるようになって、大きな勢力をつくりあげました。その神威は全国に及びましたが、特に東国では、多く同族神や屋敷神となってます。それらは伏見から「正一位稲荷大明神」の神号をうけて、その配下に属するわけです。そのような稲荷信仰の普及の基礎には、民間の田の神の信仰を考えなければならないでしょう。


若宮(わかみや)

 御霊をまつる方式のひとつとして注目されます。はげしくたたる神霊をなだめて、その活動をおさえるために、もっと強力な神格の配下におこうとします。そのような場合に神の御子という観念と結びつけ、大きな神の若宮として、その霊をまつるのです。たとえば、八幡若宮の祭神については、八幡が応神天皇と考えられたので、その若宮も仁徳天皇のように説かれています。しかし、多くの縁記などによると、なにか非業の死をとげた人の霊が、そうした若宮にいわいこめられたといいます。大名の配下になるというかぎりでは、王子神・ミコ神・ミサキ神・眷属神などとよく似ています。若宮信仰との関係で、王子信仰のことが、しばしばとりあげられています。尊い神が幼児の姿となってあらわれるというのは、そのような幼児のことばから神意をうかがおうとしたためと考えられます。
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切妻造り(きりつまづくり)
頂点に棟を稜線が1本通り、両側に屋根面が流れる形。切妻造りの雨が流れ落ちる方向を平(ひら)といい、三角形の切り口の方を妻(つま)といいます。
出入口が平側にあるものを平入り、妻側にあるものを妻入りといいます。


入母屋造り(いりもやづくり)
上半部を切妻、下半分を寄棟にした複合形。
妻側の三角形部分を破風口といい妻入り形式の家ではこの部分に意匠をこらす。


寄棟造り(よりむねづくり)
屋根面が四方にそそぐ形式。
四柱(しちゅう)、四阿(あずまや)ともいう。
伝建地区内の伝統的建造物にはほとんど見られない形式。


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   神社本殿・鳥居の形式


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