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   篠 田 神 社

所在地 篠田町上屋敷3
祭礼日 4月第2日曜日
祭  神 大国主命(大己貴命)素盞鳴尊


本 殿
 篠田は一宮では町の西南部に位置しています。神社は地区の北部で周辺の田畑の中に、こんもりと茂った社叢をもち、由緒がありそうな雰囲気があります。
 道路に南面した鳥居をくぐって、まず目に入るのは正面にあるコンクリートで作られた拝殿で、その裏に本殿があります。
 神社が所蔵している棟札によれば、文政5年(1822)のものに
「奉造立 砥鹿大明神牛頭天王 拝殿一宇」とあります。これが拝殿という言葉の出る最初のもので、これから以後、何回か建て替えられて、現在の拝殿に連なっています。
 本殿は覆いの家の中にありますが「大社造柿葺間口一間三尺、奥行一間三尺、宝永六年十一月建築」と「神社を中心とした宝飯郡史」には掲載されています。当社の棟札にも「奉造替 一宮砥鹿大明神、祇園牛

拝 殿

社号標石
頭天王」と記された宝永年間のものがありますので、宝永6年(1709)に建造されたものと考えられます。しかし、神社の歴史は非常に古いようです。
 国内神名帳には「従四位下砥鹿三御子明神坐宝飯郡」という記載があります。この砥鹿三御子明神は何処の神社に該当するかが、何百年も不明でした。江戸時代の国学者波多野敬雄も砥鹿神社の三ノ宮ではないか
と言っていました。それというのも、篠田神社は江戸時代には牛頭天王とか天王様と呼ばれており、学者たちの注目するところではなかったようです。
 昭和になって、地元の人々の協力により所蔵の棟札から篠田神社が砥鹿三御子明神であることが確認されました。このため、鎌倉時代以後、永年不明だった問題も解決し、篠田神社が近隣でも稀な由緒を持つ神社であることが判明しました。


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   宮  座

 棟札は家の新築や建て替えなどの記録として残されるものですが、それが歴史をさかのぼる手だてとなるものです。篠田神社が鎌倉時代には砥鹿三御子明神であった証拠の一つとなったことは前述のとおりです。
 篠田神社には慶長3年(1598)の棟札を初めとして多数のものが保管されています。これらの棟札が後代に写されたものでなく当時のものであることも吟味されています。その棟札から近世の篠田神社を見てみると次のようなことが考えられます。
 数多くある棟札の裏面には左右に分けて人名が書かれています。これは一般に宮座といわれるものです。
 宮座は「神事執行について、独占的な昨日を氏子内部においてもつ集団」であると定義されています。その宮座を構成する人々を師人諸人(もろと)といい、一般の村人よりも祭礼行事に関して特権を持っている人々で、古くからの家柄を誇っています。
 慶長3年の棟札には右(座)として6名、左(座)として9名のものが記されています。この人々が牛頭天王といわれたころの神社の神事を禰宜と協同して執行していたと考えられます。宮座の構成員は世襲制が主流であったが、個人の家に変化があるように、構成員にも異動があって、宮座の権利が売買されることもあったようです。
 古くはどの神社にも宮座的なものがあったようですが殆どのものは消滅してしまいました。篠田神社では昭和末年近くまで、形式的であっても宮座として機能していましたが、現在ではなくなったようです。
 


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  社  宝




 懸物は鏡面に仏、菩薩、明王、神像などの像を現したもので、古くは御正体と呼んでいました。神仏習合の思想なども加わって平安時代から江戸時代に至るまで盛んに製作され神社や寺に奉納されています。
 篠田神社は戦後に大修理を行っています。その時には2面の懸仏が発見されました。鏡面の像以外の一方には「大」他方には「天」と読むことができる文字が書かれていました。大胆に推理すれば「大」は砥鹿大菩薩の大で、「天」は牛頭天王の天と考えることができます。


狛犬

 神社に大きな石造の狛犬があることはよく知られていますが、小さな陶製や木製の狛犬のある神社は少ない。ここには陶質の狛犬が阿形、吽形の一対で保存されています。高さは40cm弱のもので、神殿に安置されていたと思われ、顔面の様子や肩に力強さがあり、江戸時代のものと思われます。




社宝として注目されているのは志津三郎兼氏銘の刀があります。総長65p強で反りも大きく、古刀の特徴を示しています。兼氏は美濃国の刀工で南北朝から室町期にかけての人です。


手水鉢

文化10年(1813)に地元の田中氏の寄進したもので高さ、横幅ともに1m程のもので奥行きは40pほどです。手水鉢に「廣前」と彫られているのは他に例を見ないものです。


鳥居

明治28年に田中氏の寄進したもので、明神形の鳥居です。


灯籠

大正14年に奉納されたもので、願主を見ると北設楽郡田口町の宇野という人で、今までの寄進者と異なり遠い所の縁者と思われます。


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