所在地 |
|
東上町権現1 |
祭礼日 |
|
10月第3日曜日 |
祭 神 |
|
保食神 稚産霊神 |
|
社号標石 |
一宮町の北東部、東上地区のほぼ中央の段丘上に籰操神社があります。参道が長いため参道入り口はJR飯田線に接する道路にまで延びています。また、豊川の近くには籰操神社があったといわれる籰操神社旧跡地があり、そこに大きな石の鳥居があります。
三河国内神名帳に「従四位上和久知明神、坐宝飯郡」という記載があります。この和久知明神こそ、籰操神 |
社の古い姿であろうと思われています。古社の例として和久知明神の名称は鎮座地によったものと理解していいでしょう。最古の棟札
の社名は不明ですが、元和9年(1623)の棟札には「宝飯郡東城郷大名神」と書かれています。これでは和久知明神との関係はないようですが、次の貞享3年(1686)のものには「東城村籰操大名神」とあります。宝飯郡史によれば、「当社をワクグリと言ふは、当社の祭神が製糸に縁あ
|
外鳥居 |
るにより、和久を籰と解し、知をシリと訓じて操と誤解し」たためと解釈されています。字についての解釈は多分その通りだと思いますが、東上村が住古に和久知の庄、東上郷といったことがあれば、鎮座地が社名になった例は多くあることから、和久知明神が籰操大名神jになったと解することができます。
東上区にある妙劉寺の涅槃図の八双に宝飯郡和口庄東上郷妙劉寺という字を探す事ができます。このことは、昔この地方が和口庄と言われていたことを物語り、和口庄の社として和久知明神の鎮座を考える事が可能です。この和久知明神が前記のような解釈から籰操大名神となり、籰操神社として現在に至り、多くの人々の信仰を得ているのです。
|
社 殿 と 祭 神 |
|
|
拝殿 |
石段を登りきった所に広場があります。広場の西方に昭和の末年までは廻り舞台をもった芝居小屋がありました。廻り舞台を持った芝居小屋は近郷にはなく氏子の人々のほこりとしていたものでしたが、時代の風潮が芝居をしない方向に進んだので、やむなく取り壊されることとなりました。
芝居小屋に対するように東方には社務所があります。広場より一段高 い所には平屋造瓦葺の拝殿があり、 |
さらに一段上の玉垣の中に八棟造柿葺の本殿が安置されています。これは貞享3年(1686)の建築といわれる古い建物で宝暦年間に手を入れられたらしいですが、長い年月のため老朽化が目立つようになりました。平成になってから大修理を行ったようですが全体を外から見ることはできません。
昔は一神(一柱)だった祭神も今では二神になっています。古くからの祭神は保食神といわれる農耕神です。神話によれば、体の各所から五穀が生えられたといわれる神で、農業における五穀豊饒を司る神でもありました。 延享3年(1746)の東上村差出帳には「保食大名神」と記されています。 |
江戸中期に祭神hの明確な神社は少なく、古くからの信仰が伝えられていたことを物語るものです。また、昭和初年にできた「神社を中心とした宝飯郡史」には載せてない紙の稚産霊神が祀られるようになったのは昭和も後年になってからと思われます。今では農業の神と共に安産の神社としての信仰が強く、そのための祭神として勧請されたものだと思われます。
拝殿には多くの輪(籰)が奉納されていました。これは安産の祈願に使 |
奉納された前掛け |
用したものです。安産の神様として近郷にしられているばかりではなく、皇子、皇女の御誕生が安隠でありますようにと、神官や役員が宮内庁まで出向いて、奉納するという慣例も昭和初年からできあがり、記念の札も拝殿の所にあります。また祭礼の日以外でも、安産を祈願する女性の姿を見かけることができます。
近年では前掛けを奉納する女性が多いようです。 |
|
|
|
このページのTOPへ |
|
|
社 叢 |
|
国道151号線から見ると水田を越した北西方向に徳台の台地が連なり、その先端部がこんもりと繁った自然の森になっています。この森が籰操神社です。
一宮町誌には「社叢は典型的なシイを主体とする広葉樹林です。その第1層はスダジイ、クロガネモチ等の常緑広葉樹、スギ、ヒノキ、アカマツ等の常緑針葉樹の老木があり、その下に、クロバイ、ヒメユズリハ、アセ |
社叢 |
拝殿背景 |
ビ、アラカシ、アカメガシワ、ソヨゴ、サカキ等の小高木があります。第3層には、これからの幼木やクチナシ、チャ、ジユズネノキ、マンリョウ、センリョウ、アリドウシ等が見られます。下草は季節によって変化がありますが、ハナミョウガ、ヤブミョウガ、イノコズチ、チヂミザサ、ジャノヒゲ、フユイチゴ、キッコウハグマ、ベニシダ等である」と記されています。 シイや松の老木には少しの変化がありますが、現在でもほぼ同様な植生であると見てよいでしょう。 |
|
|
|
このページのTOPへ |
|
|
灯 籠 と 狛 犬 |
|
|
深くに生い繁って薄暗い社叢の中に数十段の石段を作って参道としています。その参道の左右に多数の石灯籠が立てられています。
灯籠の形式は神前形といわれるもので、高さは160~170㎝ほどのものです。石で作られた灯籠は比較的角ばったものが多いようですが、ここのものは円柱の竿、丸板の中台、そして、火袋の上の笠も円形のものです。 |
灯籠の例 |
狛犬 |
竿にある銘の年代を見ると安永(1773)のものが最も古く、寛政10年(1798)から寛政12年のものが大部分です。特に寛政11年9月吉日のものが10基もあります。
灯籠の竿には年代以外に永代常夜燈とか書かれ、それ以外に寄進者名が記されています。それを見ると地元の浅若、夏目、野沢、白井、村田、大高、長谷川などの姓を見ることができ江村の三浦、牧野をはじめ、 |
江村氏子中、勝川氏子中というものも確認できます。ここにも江戸時代の百姓が姓を使用していたことを物語る資料を残しています。
また、籰操神社を崇敬する人々の広がりを示すものとして、細川村(八名郡または西三河)、前芝村、新城町、御園村といった遠方の村名を見ることができます。
参道を登りきって拝殿前にでると、宝暦2年(1752)のものが一番古い |
灯籠 |
4基の石灯籠があります。形状は参道のものと同じです。 拝殿前の狛犬は近代のものでありますが、本社には木造の古い狛犬が一体保存されています。高さは40~45cmほどで、背中の線は丸くずんぐりした感じですが、狛犬らしい力強さをもっています。 この狛犬の作者は近田新エ門は、この地方の人と考えらえられています。 |
|
|
|
このページのTOPへ |
|
|
牛 の 滝 |
|
|
牛の滝は籰操神社の地続きで、神社が管理をしています。
この滝は境川が本宮山扇状地を侵食し、領家片麻岩の部分が崖となって残りの滝となったものといわれています。滝は常竜滝とも黄牛滝ともいわれて古くから三河の名勝として広く知られていました。
高さ10m、幅2m余りの雄大な雄滝と、その下流にある高さ4m、幅4mの雌滝とからなっています。
滝の両側にはシイを中心とした常緑樹が生い繁り、盛夏でも20~23℃で外部よりも5℃ほど涼しく、水温は18℃以下で夏涼しく冬暖かい所で、夏の観光客は非常に多いです。
滝付近の自然林は、シイ、モチノキ、サカキ等による暖帯広葉樹が |
牛の滝 |
上を覆い、下にはアオキ、ツルユウジ、ウラジロ、クリハラン等が繁茂しています。また、ヘラシダ、イワヒトデ、キミズ等は東三河における北限に近いものです。
煙霞綺談(安永4年刊)には次のような伝説が載せられています。
吉田より四里北、東上村といふところあり 此村の北六、七町に本宮山より落ちる大飛泉あり、高さ四丈半、落ちる所は滝底草木繁茂し昼も暗く慶競きところなり 飛泉の壺は水盤渦きかへり人寄得ず、それより二間程下へ落る。是を雌滝といふ爰も至りて深淵なれども、東上村六左エ門といふもの水に馴れたるゆへ、常に此雌滝の壺に潜りて魚を捕る。享保中、ある日此所に至り年魚を捕んとせしに水大に逆浪せし子暫く見居たれば、淵の中より大なる黄牛湧出し 角を振り立て 吽々と吼て六左エ門を目がけ来る。六左エ門剛強の者なれども手に何も掠たざるゆへ、早々上の道へ上り宿へかえりぬ、時に忽ち発熱しうわごとなどしゃべりて三日目には相果たり。深淵より大蛇にも出づべきに牛の出たるは奇事なり。淵の主霊なるべし |
|
|
|
このページのTOPへ |